「我ガ遠ツ祖先ハ平安時代二青猿ノ地二来リテ永住ス...」

 これは、乙部公葬地内にある山本家墓碑の名文で、祖先往来の由緒を子や孫に伝えている。また、記録はないが墓石の俗名、没年などから何代目になるか推測できるのは舘崎氏(摂待)15代目、鳥居氏(樫内)14代目、中島氏(養呂地)15代目などがわかります。

 それから系図、家譜、位牌がないため何代目であるか不詳だが、伝承などで出身地のわかるのは奥平氏(笹見平)は静岡県「駿河」の戦乱後に来住。山本氏(小湊)は愛媛県「伊予」から漁業経営のため転住。沢口氏(神田)は島根県「出雲」の薬商人だった。唐木氏(旧和野)は山梨県「甲府」から兄弟二人で来住。山本氏(石畑)は閉伊頼基の家来で宮古市「田鎖」から摂待七ツ崎に来たが、のちに原住地へ移住しました。

 中村氏、前川氏(末前)は山梨県「甲斐」から移住して末前地区を開拓しました。鳥居氏(町)は愛知県「尾張」の鳥居村から兄弟4人で来住したが、長兄伝右衛門は漁業、酒造業、製塩業、海産物交易業などを広く営み、田老の尾張屋か、尾張屋の田老かといわれるほど代々繁栄していました。

 とくに交易は、豊富な漁獲物を加工したフカヒレ、イリコ、干しタラ、スルメ、海藻、カツオブシ、イワシ煮干しなどを俵物として、石巻、中湊、江戸へ輸送するなど、豊島(鍬ヶ崎)、盛合(津軽石)、東屋(宮古)と並び称されるほどの隆盛だったといわれています。

特に、ノシアワビ支配人をめぐり豊島(鍬ヶ崎)、工藤(岩泉)、吹田(田老)と競合して、南部藩より伝右衛門が五ヶ裏支配人を拝命したことは特記されるものだ。

 鳥居氏は世襲により代々、伝右衛門を名乗り街並みの中心部に屋敷を構え、広大な土地、山林を所有していました。弟三人は八戸、田老、樫内にそれぞれ分家して繁盛し現在に至っています。鳥居氏本家の記録は、南部藩。宮古代官所をはじめ沿岸町村の各種資料に見られるが、産業経済面だけでなく、楢山益人知行所の村肝入、老名など村政面にも活躍したことが知れる。明治初期、戸籍法施行で村人全部が氏名届の際、親類や多数の名子、使用人たちは主人から、鳥居の氏姓を名乗るように命じられたという。

 当町発展に尽力した祖先の伝承を簡略に紹介しました。

 

                             町史編さん委員 田澤直志    田老広報NO,453 平成7年5月号