【古文書の中の田老人】

牛方が塩や魚運ぶ

~摂待村の作兵衛らが盛岡や横手へ~

 

 小堀内の佐々木家、新田の佐々木家に残る古文書から150年ほど前の陸上交易の様子を知ることができる。

 

 天保9年(1838年)、旧摂待村の作兵衛は、海産物を横手(現秋田県)まで運搬するため、上田通り(盛岡)から秋田領までの通行を役所に願い出、通行手形をもらっている。

 

 作兵衛は牛45頭に荷を積み、盛岡から沢内経由で行っている。荷は塩やカツオなど魚類が中心。何回となく行ったのだろう。沢内には牛が途中で休むための野原があり、作兵衛野と呼ばれていた。塩は接待や水沢の浜で作っていた。

 

 旧乙部村の徳右衛門も牛44頭を引き連れ、横手に向かった記録が残っている。牛は借りたのか荷を託されたのか、所有者は乙部村の六兵衛、彦之丞、旧田老村の八之丞、慈法院(山伏)などとなっている。

 嘉永3年、(1850年)の記録では、マグロ13駄(牛13頭分)、天草2駄、切り込み(塩辛)1駄、塩など盛岡まで運んでいる。乙部村では青野滝で塩を作っていた。

 作兵衛も徳右衛門も頻繁に横手や盛岡に通っていたのだろう。古文書には、盛岡紺屋町の商人や問屋の名前も登場する。庄右衛門、松定、大平屋清蔵、いづみや惣兵衛などだ。盛岡からの帰り荷は、米などの穀類、編み笠、蓑、たばこ、ろうそくなどの雑貨を仕入れていたこともわかる。

 当時は馬よりも牛が使われていた。馬は各藩とも軍用に規制していた、し長距離、悪路の運搬には牛が適していた。盛岡に出るには岩泉、早坂方面を通っていた。普通二泊三泊かかる距離を、牛方たちは一泊二日で通った。魚の鮮度が落ちないよう急ぐ道中であった。「牛方節」を歌う余裕などなかったろう。帰り荷では歌ったか。急ぐため食事は歩きながら餅を食べたともいう。

 作兵衛や徳右衛門たちは、五十場としての商売のほか、城下町盛岡や領外の見聞、文化を村人に広める役目も果たした。

                             

                            -----教育委員会町史編さん室編さん委員から聴き取り、編集 田老広報1988年11月号より