義経北行伝説

文治五年(1189)平泉で自害したとされる源義経。 しかし、源義経が密かに平泉を脱出し北へ向かったと伝わっている。

義経が通ったり滞在したとされる点を繋ぐと北上するルートとなり、各地に民話伝承として様々な言い伝えや、物的証拠として残されている。


鈴ヶ神社

盛岡から国道106号線を宮古方面へ向かい、鈴久名トンネルを過ぎて、左手旧道におりて左の鉄道方面に向かい鉄橋手前の、小高い山の頂上に鈴久名神社があります。ここは、静御前が最期を迎えるまで過ごした場所と伝わっています。


吉内屋敷

兄頼朝に攻められた義経一行は、平泉をのがれ三陸海岸に出て蝦夷地に向かって北上したが、田老に来たとき従者の金売吉次の弟吉六は一行と別れて田代に残住した。もう一人の弟吉内は、当地の新田に永住した。背後に山、前方は魹ガ崎、黒崎まで一望に見渡すことができる高台に、広大な屋敷を構え付近一帯の山林原野を所有し当地の開拓にあたった。姓氏を吉内と改めて、『砂金売り』を業とした。吉内家には昔から家宝とする砂金秤り(黄金造り)や、義経着用の鎧、兜があったという。義経にまつわる伝説が多く残っている。新田にしばらく留まった義経は、里人の願いで飛山の悪者を退治した。その道先案内をつとめた鵜の鳥が、敵の矢にあたり死んだので『鵜の鳥神社』を祀った。また、摂待川に沿って鵜が誘うので、上流にいくと、畑部落の人が旗をふって歓迎した。義経はここにも「鵜の鳥神社」を祀ったという。清水畑に「げんどう」という屋号がある。この道は源氏の義経が通ったところであり、源道と呼ばれるようになった。吉内家は、大正年間と昭和36年の三陸フェーン大火で屋敷も家宝も焼失した。今は屋敷跡だけが残っている。                  

                                               [田老の民話]より

吉内屋敷跡 2019.4.17


長南七郎忠春

 忠春は頼朝の弟義経の家来として奥州の平泉にいましたが、関東の一角で兄頼朝が平氏にたいした戦いをはじめたという知らせに、矢もたてもたまらなくなった義経が急いで鎌倉をめざして出発したのについてゆきました。

  義経が静岡県の黄瀬川(きせがわ)という所で兄と対面し、喜んだ頼朝の軍団に加えられ、富士川の戦いで平家の軍勢を追いちらして鎌倉へ帰った時に由井ノ浜の犬追物を見物しました。義経のそばを離れたことのない忠春でしたから、いっしょに長南七郎顕基のみごとな腕前をを見たのです

 それからは、義経が平家追討(ついとう)の大将を命ぜられ、次々に平家の軍勢を破り都落ちした平家を追って西へ進軍したとき、義経のそばには弁慶(べんけい)、伊勢三郎(いせのさぶろう)らと共に忠春の姿がありました。

  1184年には、有名な一ノ谷の奇襲作戦で、鵯越(ひよどりごえ)の逆落(さかおと)しといって高いがけの上から、がけの下の海岸に陣をはっていた平家の後へかけおりて、平家をさんざんに破ったときも、忠春は大活躍しました。そしてあくる1185年の3月には、下関の東に当たる壇ノ浦(だんのうら)で、源平最後の決戦が行われました。

  源氏の武者達は、もともと騎馬戦が得意で海戦は戦ったことがありませんから、追いつめられて必死となった平家の反攻には、かなり悩まされました。少年の頃京都の鞍馬寺で、天狗じつは源氏の武士を相手に武術をおぼえ、京の五条の橋の上では弁慶を手玉にとって降参させた身の軽い義経は、舟から舟へ飛び移りながらよく戦いました。

  忠春はどうかというと同じようで、義経が八そうの舟を飛んだのに対して九そう飛んだという話が、山形県大蔵村(おおくらむら)の長南氏に昔から伝わっています。なにしろ主人より多く飛んだということは自慢すべきことではないと、ひそかに伝えてきたので知る人は少ないのです。

  壇ノ浦の戦いでは、平家第一の武勇にすぐれた平教経(たいらののりつね)は義経を追いかけまわしましたが、そのようすを描いた版画を見ると、教経が追いかけ義経が宙を飛んで逃げる下の舟の中で、忠春らが船べりにつかまって目だけ出して小さくなっているものもあります。  義経に逃げられた教経は、近くにいた源氏の武者二人を両腕にかかえて、海に飛び込んだというのは有名な話です。

  壇ノ浦の戦いは、結局平家が敗れ、義経は九州の宮崎県の奥まで平家を追ってゆき、平家を滅ぼしました。有名な「ひえつき節」という歌はこの時の歌をうたったものです。

   頼朝、義経兄弟が力を合わせて戦ったのはこれまでで、平家が滅びると仲たがいをして頼朝は義経に射手をさしむけ、義経は変装したりして各地を逃げまわり、やっとの思いで再び平泉へ逃げ込みました。忠春もこれについていったのです。

 忠春は、上総次郎忠春と名乗り、義経他数人のものと共に平泉を逃れ、南部の閉伊地方へ潜行しました。このころ、この地方は源為朝の子頼基の領地であり、頼基の奥方音羽姫は佐々木四郎高綱の長女だったと伝えられておりますから、そこを頼ってきたのではないでしょうか。忠春は田老に宝を埋めて青砂里で病死したと伝えられ、長南城に伝わる朝日かがやくの謎の歌と同じ歌を死ぬときに看取ったものへ言い残したとも伝えられています。

 

 田老に伝わる歌    朝日とろとろ 夕日かがやく 曽根の松 うるし万林 うめておく

                                              [長南氏の研究]より


真崎正清伝説

紺碧の海に大小の奇岩と入り江が織り成す田老真崎海岸。この美しい海岸を舞台にした悲恋と財宝の伝説がある。伝説の時代設定は定かでないが、真崎海岸の真崎半島に正清(まさきよ)という武将が舘を構えていたという。正清には「おつる」と「おたま」の二人の娘がおり断崖と入り江に囲まれた真崎の地で平和に暮らしていた。正清は身の丈六尺余の猛者で力が強く戦略にたけ多くの敵と戦っても常勝する「真崎の主」でもあったという。正清の居城は岩窟で、入口には敵が侵入すると鳴り出す鼓岩がありこれによって敵の侵入を事前に知ることができたのが常勝の要因でもあった。
時が流れ、二人の娘のうち姉の「おつる」が年頃になり敵方の青年と恋に落ちた。敵の青年は夜ごと「おつる」に会いに行くが敵の侵入を察知して鳴るという鼓岩があるため「おつる」の元へはたどり着けない。ある日「おつる」は愛しい人会いたさから父が留守の時に鼓岩を壊してしまった。鼓岩を壊したことを聞いた敵の青年はなんなく「おつる」と逢い二人は燃えるような恋に落ちた。そんなことを知らない正清は年頃になる二人の娘のために今まで貯めた宝を持って翌春には里に降りるつもりでいた。しかし、その年の暮れ敵は真崎へ攻め込み、正清もろとも二人の娘も惨殺されてしまったという。
晩年、里人たちは正清が娘のために蓄えた宝の場所を示すとして『朝日とろとろ、夕日輝く曽根の松、うるしまんぱい、黄金おくおく』と謎めいた呪文を残し現在に至る。この伝承は全国に散らばる朝日長者伝説に似ており、正清の財宝とは日々の辛い暮らしの中で里人が考え出した理想郷、桃源郷そのものであり、山里に多い隠れ里伝説にも通じる。しかし、実際の真崎半島は北東に突き出した半島で先端部はU字型に二つの岬があり、周辺は大小の島や岩が散らばる岩礁で50メートルほどの断崖になっており、陸上からの人の侵入を阻んでいる。そのため誰一人とその伝承の経緯を調べた者はない。

                                         [田老の伝承]より

 

真崎神社へ続く道から 真崎を望む


白鷹と明神岳

遠い昔、ちょうど今の田老鉱山の町の入口近くに、大きな石がデンと座っていました。サルが腰かけていたり、何かに驚いて駆けつけてきたシカが隠れたり、ヘビが長い冬をこの下で過ごしたりで、それは動物に親しまれていた石でした。その石は一つだけ特に目立っていたので、これを誰いうとなく『一つ石』と呼ぶようになりました。その一つ石の下にいつか真白な鷹が住むようになって、497メートルもある明神岳の一本松から、下に広がる下界を見下ろしたり、心地よさそうに山のまわりを舞うようにひらひらと翼を陽に輝かすようになりました。里の人達は、その勇姿を見上げては、神々しさに身中がしびれるような気持ちになったりしました。空を見上げ、鷹の勇姿を見て、なんだか元気が出てくるような気がして、朝の仕事のでがけにそうしたことをお互いに話すようなこともありました。暑ければ暑いなり、鷹を見てはすうっと涼しい気分になり、寒ければ寒いで、鷹の勇ましさに励まされて話合っているうちに、

 「これは、私たちを守ってくださる神さまに違いない」

と思うようになったのも無理がありません。

実際、ある時など過って山火事を出した折、どこからともなく鷹の群れが集まってきたかと思うと、山火事が消えてしまったことがありましたから、

 「山の神の化身だろう」

と話し合ったこともありました。白鷹が山の一角を目指して、まるで矢のように幾度も幾度も突っ込むように飛ぶので、不思議に思ってその場所に行ってみたら鉱石があって、ピカピカ金色に光っていたので、源義経を鞍馬から連れてきた金売吉次の弟吉内が、この山の発掘のために住み着いたとか。そんな意味では、山の化身とも言われましたが、どういう訳か「安産の神様」という人もいて、それはそれは信仰が深まるばかりでした。

 そうした頃、馬場野に住んでいた修験者「四郎兵ェ」が、神仏に仕える身で狩りに出かけたというのです。四郎兵ェはなかなかの弓の名手ですから、サルもシカもウサギもキジも、四郎兵ェがきたと悟ったかさっぱり姿を見せません。そんな事で、四郎兵ェがどんなにもがいても一匹も獲わる訳がありません。四郎兵ェは、不機嫌で帰ろうかと思いながらも、やはりそこはあきらめきれなかったと見えて、空をぐるりと見廻したら一羽の鷹が見えたので、一瞬矢を放ってしまったからたまりません。あの白鷹はスーッと山の深みに真逆落としだ。まるで、吸い込まれるように落ちてしまったのです。四郎兵ェは、まさかあの白鷹とは思いませんから、獲物を拾おうと一生懸命探したのですが、とうとうみつかりませんでした。その内に、ついに疲れ果ててうとうとと木の根に寄りかかり眠ってしまいました。

 「四郎兵ェ」

と呼ばれて、四郎兵ェはハッとしましたが、目を開けようにも目が開かず、しきりにもがいておりました。その枕上で低いながらもはっきりと

 「俺は神の使いの白鷹だ!明神岳の財宝を守るためにこの山にいるのを、お前ごときに射られて不甲斐ない!」

という声が神々しく聞こえました。修験者四郎兵ェは、その言葉が幾度も幾度も耳から離れず、繰り返し聞こえてくるので

これは大変なことになったと、今までの修験者らしからぬ自分の行いを恥じ、急いで馬場野から上飛に居を移し“明神岳”の一本松に祠を建て、『鷹明神』として祀ったのでした。毎年、旧の4月8日、鋤の沢の盛り場は、参拝者でにぎわい、誰が造って奉納したか、金のわらじがあるとか。今でも古い人は、上飛の雲南様と同体と申して、安産の神としてもいるそうです。また、青の滝の“明神崎”に住む鷹は、白く雄で海の守り神としてその勇姿を見せ、漁師は浜の行き来にその英姿を讃えています。

                                               [田老の民話]より

 

明神岳山頂 498m 鷹明神 2019.4.18