陸奥は奈良・平安時代から馬産地として知られていた。鎌倉期になり朝廷は軍用馬の多量生産をはかるため、国宣による広域な官牧を、また集落地には郷士の経営による私牧を開かせていた。閉伊地方では、南北朝期の建武元年(1334年)の「大沢村御牧場」に関わる北畠顕家の国宣文が示すように官牧が設けられていた史実がある。さて、当地の馬牧場が古記録に初めて現れるのは永正5年(1508年)の「馬焼印図」によるが、これは「古今要覧稿」に引用されている。484年前の資料は、現在までの調査では、当町最古であり貴重だ。久慈市史所載「馬焼印図」の抜粋を紹介する。

 

  「久慈の部の馬牧にはオサナキ、夏井、ホソ田、大蔵、小蔵、北野等がある。又その南方には閉伊牧が続き、その摂待、安家、乙部、鼠入等の牧のうち特に田鎖立は、関東の彦間立、関西の須弥たらい立と共に、三大名馬産地の一つとして全国的に知られ京進もしている

次に、資料をもとに閉伊郡の牧場(村名)と馬焼印形をまとめて原文のまま列記した。

 

       同郡(南方)

こざらし    火打形

大田      雀

田志ろ     再二文字

をたてやき  

あなさは    口

いゐつ     同

みなの川   同

つなこし   同

大めし   同

をとへ   火うち

そへしほり 雀

部      同

八泉    同

大つぼ  同

へいた 雀かくのこ

 

   同郡(北方)

山くち    筒

ふたい   同

せったい  同

たろう    同

おんとく   同

あっか   雀

た 小袖  火打形

かまつた  雀

らか    同

中里   同

そより  同

たくさり 同

                町史編さん委員 田沢直志    広報田老第419号