吉内屋敷

兄頼朝に攻められた義経一行は、平泉をのがれ三陸海岸に出て蝦夷地に向かって北上したが、田老に来たとき従者の金売吉次の弟吉六は一行と別れて田代に残住した。もう一人の弟吉内は、当地の新田に永住した。背後に山、前方は魹ガ崎、黒崎まで一望に見渡すことができる高台に、広大な屋敷を構え付近一帯の山林原野を所有し当地の開拓にあたった。姓氏を吉内と改めて、『砂金売り』を業とした。吉内家には昔から家宝とする砂金秤り(黄金造り)や、義経着用の鎧、兜があったという。義経にまつわる伝説が多く残っている。新田にしばらく留まった義経は、里人の願いで飛山の悪者を退治した。その道先案内をつとめた鵜の鳥が、敵の矢にあたり死んだので『鵜の鳥神社』を祀った。また、摂待川に沿って鵜が誘うので、上流にいくと、畑部落の人が旗をふって歓迎した。義経はここにも「鵜の鳥神社」を祀ったという。清水畑に「げんどう」という屋号がある。この道は源氏の義経が通ったところであり、源道と呼ばれるようになった。吉内家は、大正年間と昭和36年の三陸フェーン大火で屋敷も家宝も焼失した。今は屋敷跡だけが残っている。                  

                                               [田老の民話]より